まだ何も始まっていないような空気が、
ただそこにあった。
触れれば崩れそうなほど薄く、
それでいて、どこか重さを含んだ静けさ。
朝の光はまだ弱く、
森の奥に届く前に、
やわらかく散ってしまう。
その散った光の名残だけが、
空気の中に薄い明るさを残していた。
ふと、草の匂いがした。
フリーサイトに張ったテントの下から、
夜のあいだに冷えた草の息づかいが、
ゆっくりと立ち上がってくる。
その匂いは、
どこか湿りを含んでいて、
土の温度と混ざり合いながら、
空気の層に静かに溶けていった。
草の下にある土は、
夜の冷たさをまだ手放していない。
その冷たさが、
足元からゆっくりと立ち上がり、
空気の静けさと重なっていく。
そのとき、
森の上のほうで、
一度だけ、鳥の羽が空気を切る音がした。
かすかなその揺らぎは、
空気の表面をわずかに震わせただけで、
すぐに静けさの奥へ沈んでいった。
音はなく、
動きもなく、
ただ“気配”だけが、
目に見えない層のように重なっていく。
空気がわずかに揺れた気がした。
風だったのか、
それとも自分の呼吸だったのか、
その境界は曖昧なまま溶けていく。
時間もまた、
どこかでゆっくりと折りたたまれていくようで、
進んでいるのか、
止まっているのか、
判断できないまま流れていった。
ここにあるものが、
ここにあるままで静かに積もっていく。
その積もり方は、
雪のようでもなく、
影のようでもなく、
ただ“静けさの手前”にある何かが
ゆっくりと厚みを増していく感覚だった。
名前のつかない静けさが、
さらに深い層をつくり、
その層がまた別の層を呼び、
森の奥へと沈んでいく。
今日は、
その沈んでいく気配の中にいるだけでよかった。