-一日花が教えてくれた、静かな時間のこと-
どうしてもニッコウキスゲが見たくなり、 咲く適期は今だと思い世界谷地に出かけた。
湿原の朝は、まだ世界が目を覚ます前の匂いがした。 霧が足元を流れ、光はどこにも届いていない。 その薄闇の中で、ひとつの黄色が静かに揺れていた。 今日だけ咲くニッコウキスゲだ。
花のすぐそばに、まだ開かない蕾が寄り添っている。 閉じているのに、内側に光を抱えているのがわかる。 触れれば弾けそうなほど、静かな緊張が宿っていた。
蕾の奥で、明日の光がゆっくりとふくらんでいた。
その姿を見ていると、 なぜか自分の時間のことを考えてしまう。 散る花に終わりを、 ふくらむ蕾に明日を、 咲く一輪に今日を重ねてしまうのは、 きっと人の性分なのだろう。
やがて雨が降り始めた。 細い雨粒が花びらに触れ、 黄色が濡れて深く、濃くなっていく。 湿原の匂いが少し変わり、 空気がひんやりと肌にまとわりつく。
今日しか見られないその黄色が、
花は雨に逆らわない。 ただ、濡れた光をそのまま受け止めていた。 その佇まいを見ていると、 ありのままでいることは、案外むずかしいのだと思う。
人はつい、 意味を探し、 理由を求め、 未来を心配し、 過去に引きずられる。 けれど花は、 ただ今日を生きる。 ただ咲き、ただ散る。 それだけで十分だと言わんばかりに。
帰ろうとしたとき、ふと振り返った。 今日の花は静かに光を失いかけていた。 だがその隣で、蕾だけが 朝よりもわずかにふくらんで見えた。
終わりのすぐそばで、 次の始まりが静かに息づいていた。
湿原の風が、 その二つの時間をそっと撫でていく。
人もまた、 きっと同じなのだろう。
ただ、その小さな気配に気づけるかどうかだけの違いだ。